昭和43年8月7日 朝の御理解

  御理解 第99節
 「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある、学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」



これは、自分自身が助かっておるという事。自分自身が助かっておるという事。例えば、ここでは、無学でもと、または、学問があってもと、いわば、あー、お金があっても難儀をしておる者がある、ともいえましょうね。普通で言う、あの人は、あー、力があるという、信心の力ではないね。まあ、力が強いとでも言いましょうか、力が強うても、やはり、難儀をしておる人がある。あの人は、なかなかの知恵者であると、知恵はあっても、難儀をしておる氏子があるという風にも頂ける。ね。おかげは様々に頂けることになるですね。で、ここで求められるものは、真である、ね。真がなければです、真がなければ人が助からんという。助からんと言う事は、自分も助からんと言う事なんですね。自分が助からずしておいて、人が助かる筈がないですね。そこで、真がなければ人が助からんと仰せられますから、私たちがね、真を追求すると、まあ、言うような言葉で申しますと、なんか、難しいようにありますけれども、ね。いつも、これで良いかと言う事なのです、真とは。ね。真を追求すると言う事はね。いつも、これで良いだろうかと言う事なのです。そこで、この、もう一つ前の、御理解98節を頂くとね。「心は神信心の定規じゃによって、お伺いをするときには、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」と、こう在ります。これは、お伺いをする時にはというのは、神様にお尋ねでもすると、ね。段々、信心が進んでくるようになると、神様にお伺いを致します、と。神様が、それに対して色々、答えを下さるようになる。言うなら、神様と直結、神様と通うようになる。ね。と言う事は、あー、神様と通う、交流すると言う事、ね。為には、私共の心が、心が平気でなからねばならぬ。平気というのは、平生心である。波風が立たない心である。ね。不安、焦燥、ね。心配、ね。腹立ちと、言った様なもののない心である。いわば、落ち着いた心である。ね。落ち着いて静かに願え。そこで、信心の稽古させて頂く、いわば、拝む稽古をさせて貰うに致しましてもです、ね。ただ、拍手を打って、頭を下げておれば、もう、拝んでおるという訳にはいかん。神様に通うておる。そういう、例えば、瞬間がある。その瞬間が段々、三十分御祈念すりゃ、三十分間、ずーっと神様と通うておれれるようにもなるのです。ね。けれども、初めの間は、それが瞬間でも神様と交流する、通うひと時がある。神様の呼吸と、私共の呼吸が、ぴったり合う時がある。ね。御祈念をするのはね、そういう稽古をするのです。拝んでおかげを頂くというのは、そういう瞬間があるから、おかげを受けるのです。ね。そこで、静かに願えと、こう仰る。私共が、深う、あれやこれやとお願いさせて頂いておるがです、ね。静かに願っておりませんとですね、心が静かになる、心が平生になる、いわば、心が平気になって願っておりませんとです、ね。神様にゃ通わん。また、あー、これでは通うまい、これではおかげが頂けん筈だという、自分自身の心をですね、心配であるなら、心配の元を、腹立ちであるなら、その腹立ちの元というものが、静かな心になっておらんと分らんのです。ここでは、心は神信心の定規じゃによってと仰るですから、ね。確かに、その自分の心の、言うならば、有難さとでも言おうか、ね。ま、落ちついておる程度とでも言おうか、ね。心の中に入っておる安心の程度とでも言おうか、それが、あなたの信心の、おー、バロメーターだという事になるのです。ね。自分の心を、じっと静かに見てみて、自分の信心の程度が分かる。自分は永年信心しておるけれども、自分の心のなかの、言うならば、浅ましさ、汚さ、ね。横着さ、ずるさ、いわゆる、実意を欠いておる自分というものをです、そこに発見する。そこで、そこを改めようと努力する。または、そこんところを、お詫びをする事に一心になる。ね。そこからです、次の平生心が生まれてくるのである。ね。自分の心の中に、このような汚い心が、こういう浅ましい心がと、ね。これが静かに願えと仰る、しずかに、自分の心が、静かに、静かに自分の心を見極めておらんと分らん、通り一遍じゃ分らんと、わたしゃ、別にそげん、ぬすどがんどしたことなかけんでと、もう、それで良かつのごと思うておる。自分の心というものは静かに、静かに眺めてみる。ね。昨日の御理解を借りると、自分の心を顕微鏡にかけたような気持ちで眺めておると、はー、これでは、おかげが受けられまい。これでは、神様も、もうおかげを下さる事は出来まい、ということをね、気が付く。ね。そこで、そこのところを詫びる。ね。このような私でございますと、ね。そこを、一心に、詫びて詫びて詫び抜かせておいておるとです、いわゆる、神様と交流する時がある。神様が、ね。詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰るが、その親心を、こちらに感じ取る事ができる。涙が出るほどに嬉しゅうなってくる。ね。神様が許されたという感じがする。ね。そこからおかげが頂ける。ね。神様は許してくださったと。静かに願わせていただく。そこから、静かに、順序だてて、あれこれとお願いをする。私はここに、真で願えと、いわゆる、99節に仰っておられる、真がなければと、こう仰っておられるところはね。私は、真を追求していくと言う事から言うと、どげなこっじゃろかとこう、いかにも難しいごたる。けれども、只今私が申しましたようにです、ね。私共の心が、神様に向けられて、神様と交流するひと時がある、もう、すでに真なんです。ね。神様に通う、そのひと時が、真なんです。それで、その真を追求すると言う事は、自分自身の心の中に落ち着かない元、ね。自分自身の心の中に、このような汚いという元。こういう浅ましい心という、そういうものをです、自分で発見して、場合によってはそこを改まると訳し、ね。場合によっては、そこを詫びていくというあり方、いき方、ね。しかも、神様と通う一瞬を心に願わせて貰うて、ね。真の追求をするのです。真を、真とは、真とはというのは、それなんです。これはだから、御神前に向かっておるという時だけではない。人とお話をしておるときでも、お仕事をしておるときでも、なんと、真の欠けた仕事の仕方じゃろうかと、ね。例えば、お廊下の雑巾がけいっちょするでもです、ね。あすことここしか拭いてなかごたる感じ。同じ庭一つはわくでもです、ね。つーつーたーけというごたる風ではわいて行く。ね。はわいた所もありゃ、はわいてない所もある。これは、真を欠いておる証拠なんです。仕事をしながら、はー、自分な、こげな真のない自分だから、おかげを頂く筈はなか、ね、そこで、こげな事じゃいかんというので、真をこめての、お掃除が出来、ね。お話をしながらでも、心にもないことを、ね。心とは反対の事を平気で、いわば、嘘ついておる自分というものがです、なるほど、これでは、神様がおかげ下さる事は出来まい。いや、神様と交流する筈はないという事になる。ね。もう、どこででも、いつでも、真の追求は出来るのですから、それを御道では、実意丁寧神信心という。実意丁寧神信心とは、自分の心に我が儘がない、横着がない心だと仰る。それが真なんです。ね。そこで、ほんならここで、力はあっても、知恵はあっても、ね。いわゆる、ここでは、学問があって下、こう言うておられますけれども、学が身を食うというように、ね。人よりも、走った知恵を持っておったばっかりに難儀をしておるという人は、世の中にどのくらいおるか分らん。あっちは商売が上手じゃんね、もう、商売にかけたらもう、本当に素晴らしい商売人だけれども、ね。こっちは、ぼんやりしござるごたる商売しござるけれども、こっちのほうには残っていきよる。こっちのほうは足らんばっかり。どこにその違いがあるかという事をです、追求しなければいけんのです。ね。だから、幸せになると言う事と、ね。知恵があるとか、上手とか、ね。力があるとかと言う事は無関係である。ね。そら、力があって、知恵があって、それに真があれば鬼に金棒なのです。ね。学問があっていかんと言う事じゃない。学が身を食うと仰るけれどもね。学が有難い事になっていきゃ良いけれども、ね。難儀をしておるとするならば、(録音状況悪い)。いわば、何かが、皆さんの、その何かがおかげを、いわゆる、学が身を食うというように、何かがおかげを食うておる。身を食うておる。ね。何かか吸収しよる。ね。せっかく神様が下さっておるおかげ、まあ、言うなら、おかげは降るようにあっておるんですから、ね。それを、受け止めきらないものというのが、それなんです。
今朝、私、ある方のことをお願いしよったら、コップのね、こう、斜めにこう割れとるコップをさい出しておられる所を頂いた。あーた、これじゃあんた、これじゃちょこっとしか入らんじゃないの、こう欠けとるけん、ね。例えば、これをコップだとするなら、この辺がこういう風に欠けとるもんじゃから、これから先しか水は入らんでしょうが、ね。結局心が欠けとるのだと、真が欠けとるのだ。また、ある方のことをお願いさせて貰いよったら、もう、私は、こんな汚い炊事場見た事ないといったような、もうそら、綺麗にあの、ここのように、今の、何というですか、あー、今の、おー、いわゆる文化的な流し、水道、いわゆるガスやらいっぱい付いとるとですよ。ここの炊事場も、あんまり綺麗とは言われませんけどね、おかげ頂いとりませんけれども、今日、私、御心願に頂くのは、もう、汚い汚い、ここに魚の食べ散らかしがある、ここに、えーその、卵の割れたごたっとが、びっちゃげたまま、そこにほうからかしてある。ね。もう、その汚れたまま、醤油はこぼれておる、野菜が散らかっておる、その上もう、ハイがワンワン言いよる。というようなお知らせを頂いた。なるほど、その、ろくそないところでもですね、ちゃんと設備がしてあるから、水も出りゃ、ご飯も炊けるのだけれどもです、こういう、不衛生的な、汚いところで、ままになるおかげではですね、私は、まあ、いよいよ、不衛生的だというか、ね。ばい菌どんがつくならば、そこで、ままになったため、そこで食べためにです、ね。それが、例えば、流行病にその、なる恐れがある。ね。お互いがね、神様も願われる、こちらも願いいだい事はです、綺麗な場で、ね。ままになりたい。ここでお菜が出来たり、ここでご飯が出来たりしよると思うたら、思うただけでもう、食欲すらなくなるのだろうと思われるくらいに散らかっておる、そのお炊事場である。ね。結局、自分自身の心の中を、綺麗に取り片付ける。ね。自分の心がままになる場なんですから、言うならですね。一切の自分の心のなかから、ね。ご飯も出来てくりゃ、お菜も出来てくるのです。おかげは我が心から生み出されてくるのですから。その心が取り片付けてない、汚いであってはです、ね。いけないという訳です。いわゆる、限りなく美しゅうならせていただこうというのも、もう、限りなく、炊事場を綺麗にしようという事とも通じるわけなんです。ね。
心が欠げてはね、たった、コップいっぱいの水を頂こうと思っているけれども、ね。一合入るものであるならば、一勺か、二勺しかはいっとらん、入らん、欠げておるから。ね。それこそ、下駄の歯が欠げても歩き難いのだ。世の中が歩き難い、生活がし難い、ね。だからね、そういう時にはです、歩き難い時にはです、ね。欠けておるという事を先ず、悟らせてもらうと言う事と同時に、ね。もうそげな下駄は、ね。はねくりのけといて、ね。裸足にならな。ね。腹決めな。そすと、歩きようなる。ね。と同時に、いつも裸足でおる訳にいかんから、ね。欠けておる所を修繕しなければならない。そこでほんなら、限りなくその、例えば、ビカビカ光るごたる炊事場とか、ね。欠けていないコップとか、なかなか難しい。人間じゃから、そげん何時も綺麗な事ばっかりは考えておれない。人間じゃから、そういつも、その、おー、真が充実しておるというのは出来ない。ね。だから、難しいのである。だから、そうまでは仰らん。詫びれば許してやりたいのが親心なんです。欠けておる事に気が付かせて貰うて、ね。そこんところを静かにです、静かに願うのだ。欠けておりますと、私は、このように欠けておりますと。
私は、これは、えー、十何年前でしたかね。皆さん、ここで、お取次ぎをさせて頂く時に、ここでは、神様に、こういう風に必ず先に申し上げておる。ご結界というのは、言うなら、人間氏子の世界と、神様の世界を取り結ぶ、一つの大橋のようなものだと。大橋なのだと。ね。そういう意味でね、ここは、あの、大橋、合楽という意味に、非常に意味があるとですよ。ね。その大橋がです、ね。その大橋がです、私の受け持たせて頂いておるこの橋がです、神様、もう、汚れに汚れております。どうぞ、渡る氏子が、この汚れに触れて、ね。氏子自身が汚しませんように、あの橋を渡りよったら、着物が汚れたというような事がありませんように、ね。神様、この橋はもう、真っ暗でございます。光がございません。どうぞ、ね。明かりを貸してください、提灯を貸してくださいと。神様、この橋には、所々、穴がほげとる。迂闊に渡りよって、この穴からツン漏ってしまうと。おかげをね。氏子がここの橋を渡りよってから、こっから落ちて、怪我をするような事がございませんように、橋の手すりが壊れております。そこから川に落ち込むような事がございませんように、ね。この橋が汚れております。どうぞこの汚れで、氏子が汚し、これは、私自身の、取次ぎ者としての自分の心というものを見極めたときに、破れ果てておる、汚れ果てておる、ね。欠けておるだらけ、穴があいておる、ね。こういうものが受け持っておるところの、この橋なのだから、ね、光がない。神様どうぞ、光を貸してやってくだされ、汚しませんようにと言うて、これは、今でも、厳密に言うと、そういう気持ちでおりますけれども、もう、その事を一生懸命に、その事を思い、その事を願って、お取次ぎさせて頂いた時代があります。ね。ところが、皆が落ち込みもせずに、または、汚しもせずに、また、真っ暗い所を光を借りておるように、ここを渡らせて頂いて、おかげを頂いて帰った、また、この橋を渡って。ね。いわゆる、椛目の十何年前の、やはり、椛目の、あの時代は、あの時代でのゴヒレイがあった、と言うわけなんです。ね。ですから、この橋が修繕できておらなければ、この橋が清めに清めあがられとかなければ、ね。それからですね。もう、何年か致しましてからです。そんな願いをさせて頂きよりましたら、その、私共の御心願にですね、もう、それはもう、見事なコンクリートの大きなあの、久留米のあの、大きな大橋がありますね。えー、久留米と佐賀の間のところのですね。ああいうような大きな、あの、橋を御心願に頂いた事がある。はー、もうこの橋は大丈夫、もう、トラックが通ったっちゃ大丈夫というように、まあ、ある意味合いで、おかげを頂いたのでございますけれどもね。もう、重かもんになると、てんでこの橋がゆらゆらする。という、やはり時代があったと。ですから、お互いの、いわば、心というものを、例えば、御祈念をしながら、こう静かに静かに、御祈念をしながら、自分自身の心が破れておることを、汚れておる事をですね。気付かせていただいたら、ね。これでは神様も、おかげが下さり難かろうと、そこで、そこを清めも致します、または、修理も致しますという、お詫びをさせて頂いておると、心が平生になってくる。
学問があっても難儀をしておると、ね。いわば、知恵があっても難儀をしておると、なかなかの器量人だけれども、難儀はある。は、続いておると。ね。その、難儀を私共が、本気で見極めたらです、ね。やはりその難儀の元がです。こんなに破れておる、こんなに汚れておる、こんなにも光がないという事をですね、私共が分からせて頂いて、そこんところを、願う。しかもそこが、静かな心で願わんと、それが分らない。さあ、もう言うばっかり、もう我が言う事ばっかり。自分というものなんかは全然見極めようとしない。ね。せっかく、ままになるなら、ね。本当に、清めにも清められたお炊事場で、その、おー、ね。調理されたところの、おご馳走でなからなければ、もう、あげなきたなかとこで調理されたものならばです。思うただけでも食べられない。ね。せっかく頂くなら、いっぱいのコップにいっぱいの水を頂くなら、やっぱり、欠けておっては、ね。それは、せっかくのさい出したコップに、一勺か、二勺しか入らんというような事では、あー、馬鹿らしい。ね。自分の心の欠けておる事を、先ず、一つ、知らなきゃいけません。ね。そこんところを、もう詫びていく。ですから、難儀を感じるときにはね。もう、なんて言うても、やはり、そこを極めて、詫びていく以外にはないといったような気がしますね。ね。そして、一遍には出来んでも、そこんところを、本当に、清まらせていただくと、ね。欠けておるところは、そこんところを、足していくという精進。ね。それが、私は、真を追及していくことですから、ここにあるところの真というものを頂いてしまわなければおかげは受けられんと言う事ではない。この、真を負うて生きよ。まこととは、真とはと言うて、真を追求していきよる、そういう姿に、精進しておるそういう姿に、神様が私は目を留めてくださるというですね。おかげを下さる働きが始まってくるのです。ね。真がなければと、こう仰る。ね。だからその真を、いよいよ追求して、ね。おかげを頂いていきたい。それには、落ち着いて静かに願う。落ち着いて静かに願わなければ、ね。はー、自分の心のなかの、これではおかげは受けられまいという物を発見しきらん。ね。発見したら、そこんところを、詫びていく。改まっていく。ね。本気で、清まるように精進する。これじゃおかげは受けれれまいというものを、先ず発見しなければいけない。ね。そこを、心から詫びていくという信心。そこに、私共が、完璧に向かって、段々、一歩一歩前進していくことが出来る。ね。そこにね、私は、信心の稽古というのは、そう言う事だと思うのです。知恵はあっても、ね。力があっても、いわゆる、学問があってもと仰るように、ね。その知恵が、力が、返って身を食うておるというような人が沢山ある。特に、そこんところは、信心のない人の姿の中にそれを感じます。私共は、よく、うー、分らせて貰う。ね。ほんなら、信心があっても、そこんところをですね、気が付かんでおったんでは、何時までたっても、本当の、いわゆる不衛生的なおかげだけしか受けられない。ね。だから、不衛生的なおかげであるから、それが、ね。場合によったらばい菌が着いておるようなおかげだから、頂いたおかげで、返って、おかげを落とすというような結果にもなりかねないのでございます。どうぞ。

中村良一
2005年4月24日